こんにちは、実は大学に行くまでほとんど本を読んでいなかった田中聖斗です。
そんな私ですが、今では本を書き、年間数十冊は本を読む生活をしております。
しかし、どうやって、たくさんの本を読めるようになったのか?
自分のことをふり返りながら、皆さんの役に立つお話ができればいいなと思います。
Contents
本を読まずに大学に行けるのか?
私が本を読み始めたのは、大学に入って、さらに3年生になってからです(教科書はもちろん別ですから)。
あくまでも、大学で知り合った友人が、毎日3~4冊本を持ち歩いて年間千冊くらい読んでいたからではなく(ジャンプは借りて読んでいました)、「これは凄いな!」という活字にしかない本と出会って、そこをもっと掘り下げたいと思い、知らない情報を得るためには、活字の本を読むのが一番ということで本を読み始めたのが始まりです。
それなのに大学に行けるのかと言われれば、行けますと断言できます(いわゆるFランではないです)。
なぜなら、活字の本を読む代わりに膨大な量のマンガを読んできたからです!
マンガでも読解力はつく
私のマンガとの付き合いは長く、物心ついたときからマンガを読んでいたような気がします。
親戚の集まりでも、常にマンガを読んでいる、法事の後の食事処でも、マンガがあれば読んでいる、どこに行っても、朝起きても、昼ご飯食べても、夜帰る前までもとにかくマンガがあれば、読んでいる・・・よくよく考えるととんでもない子どもでしたが、とにかく、親戚の中での私=とにかくマンガ好きというイメージだったことでしょう。
もちろん、児童館(学童保育)でもあまり体を動かす遊びはせず、児童館の図書館(があったんです)に置かれた古典マンガ(手塚治虫とか、藤子不二雄とか、白土三平とか、楳図かずおとか)を読みあさり、とにかくマンガを読んでいる、そんな生活。
こづかいもすべてマンガ。さすがにゲーム機を買ってからはゲームにも使いましたが、兄もマンガ好きでしたので、兄が買ってきたマンガも含め、あまり裕福ではない家庭でしたが、それでも自宅にマンガが千冊くらいありました(引越が大変!)。
裕福な家庭の子とは違い、欲しいものをすぐに買ってもらえるわけではなく、オモチャもゲームもマンガも自分のお金で買わなければならないのが我が家のルール。活字本は買ってくれるルールですけど、買ってもらいたいと思う本がありませんでした。
唯一の例外は、歴史まんがの人物事典を誕生日に買ってもらったくらい。それも基本、歴史まんがの人物が描かれているので、活字本と言えるのか微妙なラインです。でも、それはくり返し読んだし、図書館でもひたすら歴史まんがを読んでいた(貸し出し禁止だった)ので、歴史にとても強くなりました。
そんな環境というのもあるのでしょうが、「同じマンガをくり返し読む」という習慣がついて、どこの巻のどのページに何が書いてあるか記憶できるようになりました(そういう意味でマンガは紙派です)。
マンガばっか読んでいたのに勉強がそこそこできたのは、そのせいもあるかもしれません(なんなら国語は得意でした)。
親は活字本を読んでもらいたい
親もマンガが嫌いではないものの、やはり「活字本を読んでほしい」という想いがあったのでしょう、我が家の誕生日プレゼントは基本的に「活字本」でした。
別に我が家は両親が高学歴というわけではなく、むしろ田舎の商業高校出身なので、インテリチックなプレゼントとして考えたわけではないでしょうが、本の内容としては「障がい者に優しく」とか「平和のために」「立派な人間の話」など、人格教育を目的とした選書だったことから、親の教育観がそのようなものだったことは子どもながらにも感じていました。
しかし、だからこそ素直にそれを読めない、という自分もいました。
ちなみに、この「誕生日プレゼントは本」には続きがあって、さすがに本だけでは今時の子どもとしてはかわいそうと思ったのか、本の途中に必ず、千円のピン札が入っていた。「ここまで読み進めたらお金がもらえる」というような仕組み(学年により枚数変わる)。
大学で出逢った頭のいい子に話したら、「それはぜひ採用したい」と言っていましたが、当人はあまりいい記憶ではないですよね。
普段、オモチャなど買ってもらえないだけに、このピン札があったからこそグレなかったのだろうと今でも思うが、それはちょっと余談。とにかく、本もちゃんと読んだか読んでないか、読んでなくてもお金をもらえてしまう仕組みなので(挟んであるからね)、読んでない本もあります(大人になってから読んだよ)。
なんなら荒技で、誕生日プレゼントにもらった、まんがで書かれた憲法の本を読み、「まんが」というタイトルを書き写さずに読書感想文に使ったことも・・・しかも二年連続で・・・。
今ならネット検索してすぐマンガだとバレそうではありますが・・・逆に理解のある先生であれば、「マンガでも内容が真面目ならよい」という風になるかもしれないので、読書感想文にしていいのかどうか、その辺は担任の先生に確認してみてください。
もちろん、「読書感想文コンクール」には出せないだろうけども。
小さい内の読み聞かせは重要
そんな感じで、活字本をほぼ読まずにいた私だが、絵本は読んでいた(と思う)。
寝る前の読み聞かせもしてもらっていたし、カセットテープで、日本昔話をよく聞かされていた記憶があります。車の中でも。
そのため、日本語の言語の取得がキチンとできていたのでしょう、大人が読むマンガでも読めたし、マンガの漢字に振られているルビで、読みも覚えることができた。人とはあまり会話をしませんでしたが・・・。
私は今、地域のコミュニティーセンターを使った学習支援「寺子屋」というのをやっていますが、国語に難を抱えている子どもは、よく言われているように、子どもの頃の「読み聞かせ」の経験が乏しいのでは?と思うことがやはり多いです。
言葉そのものを理解していないので、その言葉を使った文章の意味がわからない、当然問われていることもわからない・・・という悪循環が起きています。
最近は「音読」が教育的効果があるということが大々的に知られることになったので、小1~小3くらいだと、家庭での「音読」を宿題に課す先生が多いのですが、小学校では遅いのかなというのが正直なところです。
まずは音から言葉を学び、文字を学ぶ。
この順番がないと、文字、とくに単語の意味の取得が遅くなります。これは英語で考えるとよくわかると思います。「make」を「メイク」と発音できずにローマ字で「マケ」と発音していたら、(化粧としての)メイク⇒作るという連想もできません。逆に、日本で英語教育が伸びないのは、発音を疎かにしている説もあります。
とにかく私の場合、これがあったからこそ、マンガばっか読んでいたにもかかわらず、教科書に書いてあることは理解できたので(それでも理解できないものは別として)、なんとか大学にも入れたと。なんなら推薦なので小論文も書きましたよ。やりようです。
たくさんの本を読むために
しかし、そんな感じで来てしまったからこそ、活字本を読む習慣はまったくつかなかったですね。
兄は小説をかなり読んで、なんなら本人は小説を書いていたりもしていたようですが、今では、かつてマンガ家志望だった私が物書きになっているという逆転現象。
もちろん、私が物を書けるのは、活字の本を読むようになったからでもあります。
『ハリー・ポッター』が読めても国語はダメ?
活字本を読む動機付けに必要なのは、「本を読む大事さに気づくこと」ですね。
子どもが本を読まないのは、読む意味を見いだせないからです。
勉強と同じです。
だからこそ、大人たちはなんとか、楽しい本をと思って定番の、『かいけつゾロリ』とか『ハリー・ポッター』などの、楽しい活字本を子どもたちに薦めます。それで読むようになるなら一番いいです。
ハリー・ポッターと賢者の石: Harry Potter and the Philosopher's Stone ハリー・ポッタ (Harry Potter)
むしろ逆に、何十とシリーズのある『かいけつゾロリ』や、『ハリー・ポッター』とか読む今の子は凄いですよね。
私は未だに読んだことないですが、あんなに分量の本を自分がその歳の頃に読めたかというと、まったく読む気にならなかったでしょうね。当時ブームだった『ズッコケ三人組』シリーズも読んだことないし。
もちろん、『ハリー・ポッター』が読めたからといって国語ができるわけではありません。
あくまでも教科としての国語は、「問題作成者が思う、作者の考えを、問う教科」ですので、逆にこういったストーリー活字本しか読めない子だと苦しむことも多々あります。
というのも、「自分の感想」しか出てこないんですよね。
感想文が「国語」でやるというのも影響していると思います。
読書を「楽しい体験」と思ってしまったがために、型にはめられる「国語」は逆に窮屈で退屈なものになってしまい、「活字本が好きなのに国語がダメ」ということが起こってしまうのでしょう。
いち物書きとしては、小説などの読書を「楽しい経験」とするのはとても大事な事ではあり、重要な役割があると思いますが、やはり、「そこから何を学び取ったか」というアウトプットをさせるだけでもだいぶ違うと思います。
とはいえ、小説を一回読んだだけで子どもがそんなアウトプットをできるはずがないので(特に『ハリー・ポッター』ほどの分量のものであればなおさら)、とにかく何回も読ませて、毎回感想を聞き、「楽しかった」「面白かった」「あそこがよかった」というレベルの物から、少しずつ「こいつがこんなことしていた」「ここは自分はこう思った」となるように導くことができるかどうかが大事になってくるかなと思います。
そのプロセスを通れば、国語という教科に活かせるようになっていくでしょう。
もし親御さんが、「活字本を読んでいるから安心」という考えでしたら、お気をつけくださいませ。
芦田愛菜は参考にならない!?
かつてドラマで、児童虐待されていた子どもを教師が連れ去って自分の子どもとして育てるという意欲的な作品、日本テレビの『Mother』で子役を演じた芦田愛菜ちゃん。
5歳で小学生の役を演じただけでも凄いのに、その演技力が話題になりました(Wikipediaによると、7歳以上限定のオーディションだったにもかかわらず合格し、そのために脚本も変えたという逸話もあります)。
その後も天才子役の名をほしいままにし、芸能界にすれたりせず、テレビ東京の「池の水全部抜く」が好きで出演までしてしまった、最近は「サンドイッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」という、何かにハマって博士になっている子どもが登場する番組のMCまでしています。まさに「健やかに」育っている彼女。
そんな彼女が昨年出した本が『まなの本棚』。
テレビに出まくって、現役有名私立中学生(慶応)なのに本を出せちゃうあたり、あきらかにもう凡人じゃない感がありますが、内容はさらに突きぬけています。
とにかくヒマさえあれば読書をしている芦田愛菜さんですが、「大好き」ということで作家の辻村深月や、IPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授と対談するなど、もはや中学生として一般人とははるかに違う次元にいる彼女。
この本の中でも、年間100冊以上の本を読み、
読書はお風呂や歯磨きと同じ生活の一部
と言っちゃってるあたり、「ウチの子もそうなってほしいわ~」と思った親御さんは数知れず。
そんな活字中毒な芦田愛菜を元にしたCMが、「共済はあいなんです」というこくみん共済のもの。
実際に沢山本を読んでいるからですよね。
で、凄すぎる芦田愛菜は参考にならない!
・・・という気もしますが、この本自体は、あえてなのか、とても平易に書かれており、本の紹介も2ページないくらい、時には1ページ未満の分量の、本当に中学生が書いているような内容です(ただしとても綺麗な書き方で教養の深さを感じます)。
参考に読んでみて、お子さんがここから読書の入口になったらよいなと思いますが、まずは親御さんが読んで、芦田父と母がどうやって芦田愛菜を本好きに育てたかを学ぶのも一つかなと思います(ちなみに芦田愛菜さんは読み聞かせされたそうですが、山中教授はされていなかったそうです)。
活字本が好きになれない?
芦田愛菜さんの後に私の話をするのは恐縮ですが、マンガばっかり読んでいたのに本を読むようになった私の実体験も参考にしていただければなと思って書き綴ります。
実は私、今でも活字本、好きじゃないんですよね。
活字版とマンガ版があったら、間違いなくマンガ版を読みます。
最近は歴史まんがだけじゃなくて、古典名作小説や自己啓発本なんかが次々とマンガ化されていますよね。
個人的には、こういうものはバンバン読んでいいと思います。
マンガのメリットは、文字では書ききれないその時代の世界観をビジュアルで理解しやすく、登場人物も書き分けられているので、話がスムーズに入ってきやすいところですね。
ですから、難しい文学作品を読む前に、マンガを読むのはもはや定番の勉強法で、『源氏物語』のように、今とは違うネーミングの人が次から次へと出てくるようなものは、マンガで読んでから読むのがよいでしょう。『あさきゆめみし』いう名作マンガもありますが、巻数が多いので、そのハードルが高ければ、短いものでも、理解の「助け」にはなります。
ちょっと話がそれましたが、そんな感じで、いまだに活字が好きではない私ですが、それでも本を読みます。
それは、「本でしか得られないことがあるから」に尽きます。
たとえば世界的ベストセラー『七つの習慣』はマンガも出ていますが、読む気にならないですね。活字じゃないと内容が薄すぎると感じるからです。でも、活字が難しいと思う人はマンガから入ってもいいと思います。
そして本には、普通のマンガにはない、活字ならではの特性があります。それは、インターネットと同じような「リンク」機能です。
小説好きでも国語ができない一番の理由
活字・国語は大別すると、「物語文」と「説明文」の二つに分けられます。
特に後者の「説明文」に関しては、大人になるとこちらの方が読む機会が圧倒的に増える文です。
そもそも、大雑把に言えば、ネットの記事も、新聞も、雑誌記事も、論文も、物語以外はみーんな、「誰かの意見の説明」「何かを説明」したものです。ニュース記事も、起こった事象を文字として「説明」していると考えるとすんなりいきます。
そうすると、『ハリー・ポッター』が好きだけど国語はダメという子の障害になっている理由が見えてきます。
大人になるということは、こういう物語ではない「説明文」を読めるスキルが必要になってくるということです。
つまり、「現実」をどう認識するかということを問われているのです。
「物語」のいいところは、自分の解釈ができるところです。
だからこそ、映像化すると「自分の思っていた物が壊された」と感じたりします。
でも、「説明文」はそうじゃありません。詩やエッセイなどは作者個人の「想いの物語」なので別ですが、通常、物語以外のものは、書いた人の「現実の説明」がそこにあるだけです。
学校の国語の問題は、小説を扱っていたとしても、問題の問いそのものは「文の中の現実を説明せよ」というものです。
つまり、説明力がないと、問題が解けないのです。
「小説好きなのに国語ができない」一番の原因は、ここにあります。
自分の好きなように読めるからこそ、自分の好きなようにしか解釈しない。特にそれを他の人に説明していれば別ですが、自分の中で完結てしてしまっている場合はとくにそれが顕著です。
説明文は「リンク」で読め!
このように、物語文だけでは国語が上達しない可能性もあります。
ただ、それは物語文のせいではなく、そういう「性質」のものだということです。
また逆に、だからこそ、「説明文」ならではの読み方があります。
それは、「リンクをたどる」ということです。
インターネットがそうであるように、実は活字の「説明」も、多くはリンクをたどることができます。
何かの文献からの引用ならわかりやすいですが、他にも、新聞のコラムに「キング牧師の言葉だ」という文があれば、キング牧師を調べることができますよね。そして、キング牧師の言葉から、キング牧師の人生、その時の社会情勢、その背景となる歴史、奴隷制度、大航海時代、ヨーロッパの覇権争い・・・というようにどんどんと興味が湧けば飛んでいくことができるのです。
これは、「物語文」ではあまり起こりません。
「調べる」ことはあるでしょう。
たとえば西洋武器の「クレイモア」という単語が出てきた場合、それがなんぞやということは調べたりしても、そこから派生していくことはあまりない。なぜなら、物語はその世界に「没頭」することが目的だからです。
もちろん、世界観を広げることや、シリーズものなら関連作品を読むといったことが起こりえますが、根本的には「説明文」は体験ではなく「知識取得のためのものである」という本質を理解していないといけません。
「説明文」を攻略せよ!
このように「説明文」は、「物語文」のように没頭しないこと、広がって行くことに価値があるのです。
実は国語の「説明文が苦手」という子は、そこの文章しか見ていないということがよくあります。
環境問題のことを書いた文なのに、環境問題が深刻だということを知らなければ、作者の想いをイメージができません。そういう意味で、教養として様々な知識を得ておく(マンガでもよい)という、教養が必要です。
そういえば活字の本は読まなかったという私ですが、社会科の調べ物を新聞化した授業で大変褒められたため、それにハマって図書館で写真多めの科学技術の本とか読んでいたことを思い出しました(汗)。
マンガでもいいので、こういった社会的な知識を身につけておくと、国語の説明文の読解力向上にプラスにもなるでしょう。親がニュースなどを見て子どもに説明するのも有効です。原発のことを描いたマンガを読むだけで、科学技術と人間について考えることもできるでしょう。
逆にぶっちゃけて言うと、高校受験くらい、大学受験でも国公立でなければ、子どもに求められるものは、まんが教材レベルのことです。
「ウチの子は本を読まなくて・・・」と嘆くくらいなら、まんがで書かれたいたものをズラッと揃えて置いておけば必ず読みます。寺子屋でも、本を置いておりますが、読まれるのはマンガが書いてあるものです。でも、こういうものでも読解力は身につきます。
ですから、私がそうだったからというわけではないですが、「物語」がハマらない人には、無理してそれを読むのではなく、自己啓発本でも経済の本でも科学の本でも図鑑でもなんでもいいから、リンクから「広がる」本を読むことです。
興味を持った「一冊」から始まれば、そこには必ず「次の本の道しるべ」が書かれています。
あとはそれをたどっていくだけです。
逆に言うと、それがない本は、あまり「いい本」ではない気がします、個人的感想として。
ですから、自分にとって「いい本」と出逢うために、何か引っかかれば、どんなものでも読んでみることをオススメします。
大丈夫、日本語で書いてあるので、マンガが読めれば活字の本も読めますから(笑)。
あとは興味だけです。
一番いいのは、読んだことを「アウトプット」することです。
私も20年前から文章を書いていますが、書くためには読まないと始まらない!!
「速読」でたくさんの本を読む
「速読」は有効か?
最後に、たくさんの本を読むための魔法の方法「速読」について。
よく、成功者とかが「速読でこれだけ読んだ」みたいな話がありますよね。憧れますよね。
私は基本、遅読なのでうらやましい限りですが、でも、そんな私でも速読はできます。
どういうことか?
実は、速読にはルールがあります。
それは、「まったく知らない本ではできない」ということです。
有名なエピソードとして、速読のチャンピオンが『ハリー・ポッター』を47分で読んだがまったく内容を理解していなかった、というものがありましたし、速読について否定的な研究結果もあります。
根本的に、速読の本来の目的とは何でしょう?
「早く読み終わらせたい本を読む方法」ですよね。
私は読んだことがないので想像でしかないですが、あれだけ世界中の人を熱狂させる『ハリー・ポッター』は、「早く読み終わらせたい本」なのでしょうか?
違いますよね。
人々を夢中にさせる物語というのは、「先が知りたい、でも、終わってほしくない」と思うものです。
だから、そこに「速読」を持ち込むこと自体がナンセンス。
また、そのこと自体で、「速読」を否定するのもナンセンスだと思います。
実は、速読って、誰でもできるんですよ。やろうと思えば誰でも。
内容が大体わかっているものであるなら、ですが。
「速読」を否定する人は、本をじっくり読むのが好きで、速読はそのことに対する冒涜で、頭を使わないから思考力が磨かれない、という考え方の人もいるようです。
ですが、そもそも「速読」そのものは、「速く読むための方法論」であって、すべての本をそうやって読むことが望ましいわけではないけれども、役に立つ方法ではあるわけです。
「速読」に向く本がある
速読は、基本的に「情報を手早く得るための手段」です。
基本的には「読み飛ばし」の延長線上にあるものです。
それをテクニックとして昇華し、その、高次元に進化させたものが「速読」と言えるでしょう。
ですから、ページを画像のように保存できる天才は別として、基本、「全部は頭に入らない」です。
そもそも、頭に全部入れる必要がないですからね。
新聞の「読み飛ばし」も、ヘッドラインをみて気になるものだけを読みます。それは、頭に入れたいからです。
「説明文」は、説明したいことのために、それを説明する文で構成されています。
たくさん本を読んだりしてものを知っている人からすると、その「説明の説明」がいらないので、そこは「飛ばしてもいい」部分になります(だから、多くの事を知っている成功者たちが「速読」できるのです)。
目で追った瞬間に、「脳に記憶する必要なし」と仕分けできる習慣があれば、読んだことになりますし、肝心なことを聞かれても答えられます。
なので、「あることについて調べている」という時、似たような本を読むと「速読」が出来るようになります。似たような部分、理解している部分は読み飛ばせるからです。逆に、「違う」ところが目に入りやすい。
でも、『ハリー・ポッター』のような長い物語の場合は、頭の中で想像しながら読まないと理解できず、さらに途中を読み飛ばすと何が何やらわからなくなることもあります。
なので、先に紹介したように、47分で一冊分の「文字」だけ読めても、物語の内容は頭に入っていないのです。
週刊マンガとか、テレビドラマの場合は、飛ばしてもみてもらえるような工夫、そもそも飛ばされない工夫がしてありますが、書き下ろし本にそんな仕掛けは不要です。だからこそ、読み飛ばしたが最後、なんの話かわからなくなるのです。
ですから、「速読」もつきあいようで、様々な情報から必要な情報を取り出すためには「速読」のスキルを身につけた方がいいですし、本を読まなくても私は幸せというのであれば速読技術を身につける必要はありません。
「速読」に向く本を仕分けする
ただ、私個人としては、やはり、色々情報を仕入れたい気持ちがありますので、やはり、「読み飛ばさない本」と「読み飛ばせる本」とは分けて読みます。前者は、じっくりと。後者は、さーっと。
その基準は、「物語文」か「説明文」かではなく、自分にとって「深い学び」があるものか、「有用な情報」があるものか、という分け方です。
たとえばビジネス本とか自己啓発本なんて、基本的に似たような内容が書いてありますので、後者のやり方で事足ります。
また、こういう類いの本は、同じ作者が何冊も色々出しているので、重複しているものもあります。
あれは、幻冬舎の人気編集者箕輪厚介がぶっちゃけていますが、ゴーストライター(ブックライター)が、「ホリエモン」などの有名な成功者の言葉(時にはSNS)からふくらませて書いているから成せる技です。
だから、自分にとって有用な部分とそうでない部分は切り分けて読みます。
その結果として、正直、内容が薄い本は、本屋の立ち読みで大概済んでしまうこともあります。それも別に「読んだ」にカウントしたっていいでしょう、そういう本が多いので。
大事なのは「冊数」ではなく、いかによい読書体験をするか、ということです。
だから逆に、「説明文」でも、自身が知らない内容のものだったり、かなり綿密に調べて書かれた内容のものは、速読で理解できるのは表面的な「情報」だけであり、その背景にあるものを読み解くことができません。
たとえば、古典的名著、マーティン・ガードナーの『自然界における左と右』なんてのは、典型的な説明文ですが、速読には不向きです。
古い本ですので「これは違う」と簡単に切り捨てるのではなく、そう考えた思考プロセスも学べたりするからです。実はこの経験はとても大事で、物語文ではそうはいきません。
ちなみにこの本はすでに絶版なので残念なところではありますが、
昔、ニューヨーク市の地下鉄で使っていた電球は、ネジ山が左巻きに切ってあった! そうしないと、誰かがこの電球を盗んでいって、家で使ってしまうからである。(今ではすべて、特殊は取りつけ方をした蛍光灯にかわっている)
というような文章を読んでみてどうでしょうか?
「速読」だと、それは「へー」で終わりますが、熟読すると、「このネタは使えるよな」ということを考えることもできます。
もちろん、「速読」でホリエモンの本を読んで仕入れたネタを、知らない人にそれを披露してもできるのですが、もし、それを知っている人から見たら、「それってホリエモンがツイートしてたヤツじゃね?」となり、「薄っぺらい」認定されてしまうことでしょう。
人との差は、そういう所から生まれていくのです。
ただ、「速読」でも、同ジャンルの本を30冊も読めば、それは相当な分量なので、「薄っぺらい」と思われることはなくなります。
うまく「速読」とつきあうのがよいかなと思います。
「速読」に向くサービス
「説明文」の速読は、電子書籍との相性がバッチリです。
アマゾンの定額制の読み放題サービス「Kindle Unlimited」なんかもいいですね。
ただ当初は、読み放題で読めるものが、本当にスカスカなラインナップでしたが、今は、雑誌も読めたり(他社の雑誌読み放題の方が安いけど)、金曜ロードSHOW!みたいに、「新作が出るから旧作はプロモとして無料配信します」みたいな感じで読めるようになりましたので、過去のベストセラーなんかも読めたりします。こういう旧作は、内容は新作と大幅に変わらない割に、有用な情報がたっぷり詰まっていることも多いので、非常にお得に読めます。
最近は、結構有名なビジネス書も無料で読めるようになり、本をたくさん読みたい人にとっては、月額980円+税という費用がプライム会員でも発生してしまいますが、使い方によってはその金額以上の価値はあります(雑誌も読めるし)。
しかもタブレットとかで読むと、紙と違って、ページのサムネイルで文字を見ながらパーッとページ移動ができますので、「速読」にもってこいですね。
コンテンツとしては、「無料」だからこそ、紙の出版そのものがなく電子版のみのものだったり、内容がびみょ~だったり、レビューが★3.5とか評価に困るものも多々ありますが、逆に、「一寸の虫に五分の魂」ではありませんが、書店には並ばないけども、書いた人の持っている「オイシイ情報」がちょこっとだけでも入っていたりすることもありますので、誰も知らない情報を仕入れるには案外便利だったりします。
もちろん、よく似たビジネス書なんか読むには最適です。気になるところだけ読みやすい。
そもそも、「言いたいことはほんの数ページ」なのに、本という形で世に出すために膨らませている本が多すぎるのです。そんな本は、本当に有益なものだけを「速読」で取り入れるのが正しいやり方かなと私は思います。
少なくとも私は、そうやって「速読」を使っています。
なお、逆に、電子書籍で物語文が読めるメリットとしては、「どんな体勢でも、どこでも読める」というところでしょうか。片手でも、寝ながらでも、暗いところでも、風呂場でも読むことができます。
実は、速読に向かない『ハリー・ポッター 賢者の石』もKindle Unlimitedにあります。
ハリー・ポッターと賢者の石: Harry Potter and the Philosopher's Stone ハリー・ポッタ (Harry Potter)
サービス契約もしくは無料体験期間中なら無料で読めますが、30日間無料体験はいつ終わるか不明だったり、急に読み放題じゃなくなることもありますのでお気をつけくださいませ。
ちょっと前までは、日本テレビ「世界一受けたい授業」でも紹介された、メモ法を書いたベストセラー『メモの魔力』もありましたが、今は無料じゃなくなってますし・・・。
まぁ、「毎月払っているから元を取るために本を読むかでも、立派な「たくさん本を読めるようになる方法」ではありますが(笑)。
以上、これが私の「たくさんの本を読む方法」でした。