教育の常識を考える

「体罰はあっても仕方ない」のか?

私は1978年生まれですので、子どもの頃に学校が荒れてたとかそんなことはなかったですが、私より上の世代は荒れていた所もあった時代だったのかなとも思います。この辺は主観でしかないのでなんとも言いがたいのですが、それでも、私の子ども時代でも、今ほど体罰に目くじらを立てることはなかったですね。

尻を叩かれるとかいう人もいましたし。

しかし、それが90年代以降、体罰に対して「それはどうかと」という風潮が強くなりましたね。

マンガとかでも、今(?)で言うDQN(ドキュン)が、「体罰教師になったら困るよな~」と教師を煽っているシーンを見かけることが多くなりました(大概はそのあと型破りな主人公にDQNはぶっ飛ばされるのですが)。実際、そういう、教師が生徒に煽られて反撃し、社会的に抹殺されるということもあります。

この辺の所に対して、ドラマとしては学校ものの定番『3年B組金八先生』は、明確に「体罰を肯定するわけではないが生命に関わることなどの時はぶっ飛ばすこともある」というスタンスを崩していません。

第5シリーズでは、ホントに死にそうなケースがあって金八が殴って、辞表を提出・・・みたいな展開もありました。

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体罰はまともな議論が成り立たないテーマ

そもそもメディアにも大いに問題があるのですが、今のメディアのスタンスは「両論併記」が多いのです。

これは、一つの見方に偏らず、賛成派と反対派の双方を同様に取り上げて、見る人に考えてもらうのが狙い・・・というと聞こえは良いのですが、日和(ひよ)っているやり方とも言えます。昔と違ってマスメディアの権威は強くありませんので、バッシングを避けたいという保守的な狙いもあるのです。

しかし、肝心のテーマが、両論併記することで見えなくなることもあります。

 

そもそも体罰とは何か?

体罰問題があれば必ずと言っていいほど、街頭インタビューが行われ、あなたは体罰に賛成ですか、反対ですかという問われ方をして、メディアにとって「良い感じの」リアクションをしてくれた人の意見を採用して、編集して、発表する・・・そういうことが延々とくり返されているわけです、今日までずっと。

「そもそも体罰とは何か」という定義を決めておけよということで、ようやく国が「これは体罰です!」というガイドラインを作ってみたはいいものの、その反応は微妙です。

個人的には、体罰というのは、「病院のお世話になるもの」と定義してしまうのが一番簡単じゃないかなと思います。

つまり、感情にまかせて顔をはたいてしまったけど、そのことをずっと思い悩んでいて、殴られた本人は頬が赤くなったくらいであれば、「体罰」といってつるし上げるほどのものでもないと思うのですが、歯が抜けてしまうほどしばくとか、耳が聞こえなくなるなどの強さで叩くというのは明らかにしつけの限度を超えているという考え方です。

もちろん、良いか悪いかという文脈でとらえれば、そりゃ殴らないに越したことはないのです。

でも、子育ては学校の勉強のような答えのあるものと違って、生身の生き物、しかも大概は自分の血をひいているだけに、自分に似ている存在です。しかも毎日一緒にいる。ムカつくこともあるでしょうし、カッとなることもあるでしょう、人間なんだから。

自分が若い頃、親に逆らってきたことで後悔したことを、この子にもさせたくないように自分は頑張ってるのに、なんで言うことを聞かずに同じ道を歩もうとするんだお前は!・・・となって、それで手が出てしまった・・・それがじゃぁ、もの凄い罪に問われるべきことなのかと。

 

言うこと聞かないんだよ!!

体罰の議論が始まると、必ず出てくるのは、「言葉だけでは聴かない」という意見です。

しかし、そういう意見に対しても、「いや、言葉だけでわかるようにしないといけないのだ」「教育力不足なのだ」という反対意見が出てくるのが今の世の中です。

実は、私個人もその意見には賛成ですが、現実問題、子どもたちと直に接していると、「それも理想論だよな」と思うこともままあります

たとえば、ある教育者が、自分は体罰など使わずとも、言葉と働きかけで、子どもがまっすぐ育ち、有名私学に行って、東大にも行ったという人がいるとしましょう。でも、経歴を見たらその人(父親)は東大卒で、その後もきらびやかな経歴がズラズラと書いてあるわけです。経済的にも余裕があり、奥さんが専業主婦というケースも少なくありません。

でも、現実問題、平均年収が300万円台と言われるこの時代、こういういわば「エリート」の理想の教育論がどれくらい参考になるのかというと、若干怪しいのも事実です。

確かに、その方が正しくて、体罰も必要としない。子どももまっすぐ育つ。

でも、それがみんながみんな出来るかといったら、そんなことはない。

なぜなら、経済的な面から、心にゆとりがないかもしれないし、何より、親は子どもの教育方法について、学校みたいに学ぶ機会がないのですから・・・そして、日々の生活の中で、自分なりに考えたり、身近な人から聴いたり、本を読んだりしたことをやってみたりといったことが起きるわけですが、それで上手く行かないときに「手が出る」というのも、普通に考えたらあり得る事態です

なぜなら、子どもは子どもなので、大人から見るとかなり不完全な存在なので、「何とかしたい」と思えばこそでしょう。

実際、教育熱が強すぎて、息子を刺し殺すといった痛ましい事件も、そういった「何とかしたい」が異常な執着となって、何のための教育なのか忘れてしまったがゆえの不幸でしょう。

 

体罰はなくても人は育つ

実は、体罰は「しない」と決めてしまえば、しないものです。

ちなみに私は、親に殴られたことは一度もなかったです。
私の時代にはまぁまぁ珍しい方だったのかなと思います。

それは、父親が、自身が子どもの頃に、柔道の有段者だった自身の父親(つまり私の祖父)によくブン殴られていたから、「自分の子どもにはそういうことは絶対にしない」と誓ったからだそうです。

そして実際、相当頑固な性格ではありましたので、厳しく「言う」、しつこく「言う」ことはあっても、私も兄も、父から暴力を振るわれたことは一切なかったです。おかげさまで真っ当な人間として生きています(たぶん)。

 

体罰肯定派は、経験則に依存している

このように、体罰はしようと思わなければ、せずにすますことが出来るものです

それでも、やってしまう、頼ってしまうというのは、それが一つの「成功例だから」と言えるでしょう。

たとえば自分が、「怒って殴られて良かった」という経験があれば、それを肯定しやすくなります。プロ野球界などで体罰が起こったときに選手にアンケートを採ると、決まってそういう意見が出てきます。「だからプロになれた」と。「言葉じゃ通じない時もあるから」という意見は、自身もそうやってしつけされてきた経験があるからこそ、言えることです。

でも、本当にそうなのか?

たとえその場で殴られなくても、他の人に言葉で注意されて間違いに気づかされた経験をすれば、結果的に同じことだった可能性はあります。

たとえば先のプロ野球選手の場合で考えましょう。プロスポーツ選手というのは、そもそも肉体的な才能、運動のセンスといったものがかなり重要ですし、体罰を使った厳しい指導が、メンタリティの強化に役立ったかもしれなくても、それが必ずしも「この方法しかない」というものでもない。

実際に、この度メジャーリーグに挑戦することになった(おめでとうございます)横浜DeNAベイスターズの筒香選手なんかは、日本の少年野球の「勝利至上主義」が蔓延していることそのものが問題だと指摘します。勝利至上主義で体罰もあったりしても、結果、のびのびとやって才能を伸ばしていないから、日本人には「消えた天才」がたくさんいて、ドミニカの方がメジャーリーガーが多いのだと。

でも、そういうのがどこか他人事だったり、自分の経験上「このやり方しか知らない」からこそ、「それがいい」になってしまい、体罰へのハードルが下がってしまうんですよね。

 

体罰コーチ“でもいいや”と思う保護者たち

実はこれは、最近たまにテレビで取り上げられる、「体罰コーチ」の問題も似たところがあります。

明らかに体罰しているコーチだけど、実績があるから、そこには目をつむろうとするのです。ひどいところだと、それを誓約書にしたためるような所もあったそうです。

これも、自分の子どもを成功させたい、そのためには実績のあるコーチの元で指導してほしい、そして実績を残していってほしい、もしくは、問題に巻き込まれずに済ませたいという親の想いが成せる技であり、実際に良い成績を残せるようになると、コーチには感謝しかなくなっていくわけですね。

でも、それもこれも、そういうコーチしか身近にいなかったからというだけで、実際、体罰を用いなくても実績を残せるコーチだっているわけです。実際に、そういうコーチを選べたのなら、そっちを選ぶ人が多いのではないでしょうか??

でも、そういうコーチが少ない。

なぜなら、自身の経験則に依存しているコーチが多い現状があるからです。

特に、過去の実力者が権力を持ち、経験則による勝利至上主義の指導が最優先され、コーチングに力を入れていないスポーツ団体はそれが顕著でしょう。

 

風穴を開けたコーチ

しかし世の中では、経験則ではない、体罰を用いないで成功したコーチもいます。

青山学院の原晋監督なんて、「楽しく走ろう!」みたいな感じなのに、今や箱根の常勝軍団を作り上げているわけです。

もっとも、「厳しさ」というのは必要です。

でも、その厳しさが、体罰でしか表現できないかといったらそんなことはないと思うんですよね。

先の原監督も、自身が陸上選手だったこともあるし、ビジネスマンでもあったので、決して楽しいだけじゃダメというのもわかっているわけです。

それを踏まえた上で、今の、理論武装する若い子たちをどう動かすかを考えて、あのような行動をしているわけです。また、それだけではなく、「長期的戦略」「モチベーションコントロール」「スポーツ科学との付き合い方」なども、テレビを見ているだけではわかりませんが、しっかりと考えた上で、今があるのです。

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例えば、氏の著書『勝ち続ける理由』にも、体罰が起こりうる旧態依然としたチーム体制のことについてシンプルにまとめていました。

・・・やはりトップクラスのチームに育て上げるまでには10年かかっている。
 もっと短期間で強いチームを育成する近道がないのかと聞かれたら、近道はある。
 監督がチームを一方的に牛耳り、監督の意向に選手たちが絶対服従する上意下達の組織をつくるほうが時間的には早いと思う。ただ、そのカリスマ監督が急死したりリタイアしたりしたら、そのチームは一気に失速するだろう。

(原晋 著『勝ち続ける理由』祥伝社新書)

こういう組織が、体罰を誰も止められない帝国を作る温床になるのかなと思います。

色んなことを考えた上で、原監督は、あくまでも成功のための手段として今の方法を取っているのです。それもこれも、ただただ勝つためだけではなく、人として成長してもらいたいという気持ちも込めて。

もちろん、地域の体罰コーチも、成功のため、成長のためということで、体罰という手法をとっています。

これは指導論の勝負なのです。
そして、原監督は、その勝負に勝ち続けている。

でも、そういうコーチが身近にいない・・・だからこそ、手近な、子どもを成功させてくれそうな指導者に、飛びつくのです。飛びついてしまうのです。そして自らも、その方法論に頼ってしまうのです。

それは、子どもの本来の成長ではなく、「メリット」や「保証」を求めているからではないでしょうか?

 

体罰はしない方が良いに決まっている

ここまで読んでいただいた方には、わかって頂けたかなと思いますが、そもそも、体罰なんてしないにこしたことはないのです。

実際、私という人間を作るのに体罰は必要なかったです。

確かに私は運動部でしたが、体罰は受けませんでした。

でも、受けている子はいました。真面目にやっていないと。まぁ、辞めちゃいましたけど。才能はありましたが、結局は帰宅部になりました。きっと、そういう人はごまんといるでしょう。

おそらく、そういう調査をすれば、体罰がマイナスに働いたことは山ほどあるでしょう。

相撲協会で体罰問題がよく起きていますが、新しく入る人って増えてます?

医学生ですら、訴えられるのがイヤだからと外科ではなく眼科や耳鼻科に行くのです(そういう男は叩かれないのに女が外科医に向いてないと叩く人は頭がおかしいと思いますが)。

誰だって「体罰」はイヤなんです。

だから、体罰が日常的にあるような所は、そういう分野は、やはりドンドンと落ちぶれて行くことだってありうると思います。実際、最近の子どもは、親が野球好きとかでなければ、野球をしない子も多いです(その辺、マンガ『MAJOR』でも語られていましたね。今の子は野球のルールすら知らない子もいます)。

 

やろうと思えば「体罰なし」は可能

ちなみに我が家ははじめにあげた例のように、父親が東大卒でも、母親が専業主婦でもありませんでした。

共に田舎の商業高校出身で、株式会社でもない自営業を夫婦二人で細々とやっていた、貧乏家庭でした。でも、体罰は必要ありませんでした。親が、必要ないようにしてきたからです。

おそらくそれは、かなりの葛藤があったことだと思います。

子どもは言うことを聞かないし、平気でウソをつきます。すぐに泣き出したり、やる気をなくしたりします。

でも、それでも、言うことを聞かせようとするための暴力を選択しませんでした。

「そういう親」になりたくなかったからです。

ちなみに、「体罰禁止」を掲げたプロ野球チームもありました。中日ドラゴンズの黄金時代を作った、落合博満元監督の時代です。

それでも、体罰をなくすのに五年かかったそうです(実際、ヘッドコーチの森繁和は著書で「手は出なかったが足が出てしまった」と証言しています)。

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結局、「しない」と決めない限りは、してしまうのです。人は、楽な方に流れてしまうからです。

感情にまかせて、子どもの気持ち以上に優先すべきことがあると思っているときはなおさらです。

 

体罰は”下策”だと自覚すること

一番最初の話に戻りますが、本当に問題なのは、メディアが「体罰の是非」という切り口でしかこの問題を捉えないことで、本質を見えなくさせていることでしょう。

カッとして殴ってしまったというのも、人に見られない部分だけにたくさん傷跡をつけるくらい「虐待」をくり返していたというのは、同じ「体罰」という言葉では語れないはずなのです。

それなのに、「体罰の是非」という形に切り取ってしまうと、同じ文脈で語られてしまうようになっているのです。

そして、「しつけだからしょうがないよね」なんてことになってしまうのですし、虐待する親たちもそれを正当化の道具に使うわけです。

それを言うと、「虐待」は絶対ダメ、「体罰」はしつけならしょうがないという意見がこれからも永遠と出てきます。

でも、そこの線引きはどこなのかということが、結果的にはできない。

厚生労働省のガイドライン素案は、そういう意味で、必要な取り組みとは言えるのでしょうが、結果的には「理想の子育て」を前提にしているため、色々と紛糾しています。

まぁ、「正座もダメなのか」とか、部分部分だけとりあげることにはあまり意味がないのですが、この「理想の子育て」をしてほしいという意図があることは理解してあげるべきかなとは思います。

 

ただ、こういう「理想の子育て」を基準にガイドラインを作ることで何が起こるかというと、それに抵触しないものをまた、子どもを虐待したり、子どもを性的に隷属させたりする人間はこすく考えることもありえます。

だから、本当に、シンプルにこう考えた方がいいんじゃないかと思うわけです。

「病院のお世話になるものは体罰」

「体罰は下策」

と。

 

歴史が“下策”の意味を教えてくれる

長時間正座をしたことが体罰になるのは、それがトラウマになったりするからでしょう。
トラウマになればそれは心療内科にかかる問題ですので、それはNG。ただ、トラウマにならない、「ああ、自分がいけなかったな」と回顧する機会になるだけであれば、それはトラウマにならないから、それは体罰とは言えない、と私は考えます。

そして、「体罰は下策」というのは、これまで述べてきたように、体罰に頼らなくても出来ることは多くある現実を受け入れた上で、それでも体罰があって成功したというのは、それは、たとえば誰の血も流さない「名誉革命」を目指すことも出来たけど、気に入らない人間は全員死刑にしてしまう革命になっちゃった、みたいなものです。

実際、フランス革命はギロチンで、贅沢生活の象徴であるルイ16世やマリー・アントワネットを処刑し、市民のための国が作られたかに見えましたが、その後は、平気でギロチンが使われる恐怖政治が蔓延する、暗い歴史の始まりでもあったわけです

つまり、「そうじゃない方法もあったはず。そうじゃない方法の方がよかったはず(良策)」ということもあり得たわけです。暴力にはいつもこういった側面があります

 

たとえば、今、世界はトランプ大統領が、イランの革命防衛隊の司令官(イラン国の軍人)を殺害したと公表しましたが、それをやらなかったらアメリカ軍が被害を被ることになったという主張が本当だとしても、歴史的に見ると「下策」になるのでは? という気もします。

つまり、「体罰が下策」というのは、今の問題ではなく、将来の問題になるからということです。

そこを考えて本当に議論されているのでしょうか?

それでも、未就学児に文字を書かせて、綺麗に書けなければ体罰(虐待)をするのも、「子どもの将来のため」とのたまう人もいますが、本当に今、そこで、それをやらないと、将来に悪影響なのか?

「体罰は下策」

思わず体罰をしたくなったときは、怒りに身を任せず、いったん深呼吸してから、本当に必要なアクションをすることが大事なのではないでしょうか??

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