古より、「人生で一番大切なのはお金か?」という議論がありますが、
いつの時代も子どもたちがそれに影響され、訳知り顔で「お金が一番大事なんでしょ?」と言うことはよくあります。
と言うと、
「いや、お金がすべてではない」
「一番大事なのは愛に決まっている」
「お金も大事だけど、愛の方が大事だ」
などという反論が生まれるのもよくありますよね。
そこで今回は、子どもたちがそう言い出したら大人としてどう答えるべきかを考えていきたいと思います。
Contents
本当にお金が一番大事なのか?
お金が一番大切だという考え方
お金をありがたがる考え方、風潮のことを「拝金主義」、そういった人のことを「拝金主義者」と言いますが、そういう人も確かにいます。
そういう人からすると、お金というのはまさに神のような絶対的存在でありがたいものですから、それをあがめ、文字通りお金を拝むのも自然な話です。
端から見るとそれは「お金の奴隷」ということになるかもしれませんが、貧乏でひもじくて惨めな生活を送っていた人が、そんな生活はコリゴリで、お金を増やすことに全力投球し、その結果としてお金持ちになり、そんな惨めな想いをすることがなくなれば、「お金がない生活をする方がよっぽど奴隷的な生き方じゃん?」と言われたら確かにそうでしょう。
だから、拝金主義的な人ほど、お金があることを見せびらかしたり、それをかさに着て人を動かすこともあるでしょう。
それで結果裏切られて文無しになることも往々にしてありますが、何せ、お金はないよりもあった方が良い。
それは紛れもない事実です。
お金がないことでできないことはたくさんわるわけですから、お金があるというだけで、その人たちより優位に立てるわけです。
気分良いですよね。マウントできますよね。よくマンガにある「札束で顔をはたく」ことだってしたくもなりますよね。
ですが、そういう考えがあるからこそ、「お金があれば何でもできる」というような考えに結びついていきやすいのも事実です。
まさに、「金がすべて」なのです。
そもそも、お金は道具である
こういう「お金がすべてだ」という議論が出るたびに出てくる反論の一つですが、実際、「お金が一番大事」と言うお金持ちよりも、「お金は道具だ」と言うお金持ちが多いです。
それは、お金はあくまでも、もっとも平等で使いやすい交換手段のための道具だという考え方ですね。
それもそうでしょう。
お金持ちも、お金が目的ではあったとしても、それだけが一番優先すべきものであったとしたら、ずーっとずーっとお金を追い続けなければならないのです。
それでは完全に「お金の奴隷」とでも言えるような状態になります。
しかし、多くのお金持ちは、「お金持ち」がゴールではありません。
ひょっとしたら最初は「お金がすべて」と思っていたかもしれませんが、いつの間にか、その過程において、仕事への情熱ややりがい、仲間との友情があったり、家族との出会いがあったりと、色んなことがあってお金持ちになっていく中で、「お金は手段であって目的じゃないんだな」と気づいていった人も多いわけです。
ですから、お金持ちになった生活をエンジョイすることを大事にするようになるのです。
となれば、お金はそのための道具であると考え、自分に投資するのか、会社に投資するのか、株式に投資するのか、それとも自宅を豪勢にするために使うのか、家族のために使うのか・・・どうやってお金を使おうかという考え方をします。
それは完全に、「お金=道具」として考えているということです。
ですから、「お金が大事」というのはもちろんではありますが、「一番大事なのは愛」と言うお金持ちがいるのも自然なことかなと思います。
もちろん、それはお金持ちだから言えることという反論も生まれるのですが・・・それでも、お金持ちからすると、少なくとも今の気持ちとして、お金に対しての偽りのない気持ちでしょう(もちろん、「お金が好き」というのはあると思いますけどね)。
子どもはそうは思わない
そういう現実を知れば、子どもに「お金が一番じゃないんだよ」と教えるのはそう難しくないことのように映るかもしれませんが、実際は意外と難しかったりすることも多いです。
先の例のように、いくらお金持ちが「一番大事なのは愛」と言ったところで、結局お金があるから言えてんじゃんということは、子どもでもわかります。
大きな家にあるプールサイドで「お金が一番じゃないんだよ」と言っても説得力ないですよね。
いくらそう語るお金持ちが、本当に全財産がなくなっても、幸せに生きられるとしても、そんなことわかりっこないわけですから。
むしろ、好きな物を好きなように買える暮らしの方がカッコイイ。
そこで、「やっぱお金が一番大事何だな」と考える子がいても不思議じゃない。というか実際います。
さすがに昔とはだいぶ異なりましたが、それでも子どもたちが有名なお金持ち(ユーチューバーとかスポーツ選手)に憧れるというのは変わりません。
子どもの安定志向が顕著で「サラリーマンが夢」「専業主婦が夢」という子もいますけれど、それでも、「お金持ち」が夢であるというのはあるわけです。
そして、親としてもそれを否定する人はそういないんじゃないでしょうか? 収入は多ければ多いほどいい。
だからむしろ、「ちゃんと勉強していい生活をしてほしい」ということを如実にアピールする人もいるかもしれません。
子どもはなぜ「お金が一番大事」と考えるのか?
多くの親御さんがが心配しているのは、「将来子どもは自立して生活できるのか」ということでしょう。
少なくとも「そんなことよりも、探求する楽しさを追求し続けてほしい」と思っている親御さんよりは圧倒的に多いと思います。
もちろん、お子さんが小さいときはそういう考えを持っている方は結構いるのですが、それを、中学になっても、高校になっても、テストの点がすこぶる悪くても言い続けられる親御さんはほとんどいません。
ほとんどの方が、大金持ちではありませんから、やはり子どもに自立を求めるのは自然なことです。
「探求する楽しさ」を子どもに追わせ続けることができるのは、お金があって裕福な家庭でしょう。そうやって、探求してその道のプロとして身を立てられることがあるかもしれなくても、将来への不安が勝ってしまい、なかなかそんな賭けもできないものです。
そうなれば、「やっぱりちゃんと自立して、自分で生計を立てられるようになってほしい」と考える・・・自然なことです。
それであれば、できる限り収入が高い仕事になってくれた方がやっぱり生活するにも楽になるからいい。
だから、「将来のためにも勉強しなさい」と言うこともあるでしょう。
また、子どもは子どもで、お金持ちの持つ「できることの多さ」に着目します。
子どもは、とにかく欲しいものがたくさんあります。
おもちゃメーカーも、音楽業界も、なんとか金を使わせようと必死ですので、それこそ「お金はいくらあってもいい」と考えても不思議ではありません。
また、子ども、特に男の子は「強さ」への憧れを持っていますので、お金があれば、ほしいものが何でも買える。好きなことができる。人を従わせられる・・・やれることが無限、そう、子どもの好きな「無敵」状態に近づくわけです。
そのための「アイテム」が「お金」なのです。
そこに、大人が思うような「お金」の綺麗も汚いもありません。RPGのお金と一緒です。
それに併せて親から、将来の「お金」の話をされたりしていれば、「人生でお金が一番大事なんだ」という考えに行き着きやすいというのもあるでしょう。
では、何が大切だと伝えるべきか?
キリスト教の「愛」
特に「愛が一番大事だ」と熱く語るのはきっと、学校の先生以上に、キリスト教徒の方でしょう。
それもそのはず、キリスト教の中で「愛」というのは古来より多く語られてきたテーマであります。
しかし、この「愛」という概念を日本人がキチンと理解していないことはよく指摘されています。
キリスト教、正確には古代ギリシア文化では、「愛」の概念を4段階に分けて考えています(3段階で分ける人もいます)。それは、キリスト教の「愛」の中でもっとも重要とされる「アガペー」を説明するためです。
エロス
日本でもなじみのある言葉ですが、まんま、「性愛」のことだけでなく「恋愛」を表します
フィーリア
日本ではほとんど語られませんが、「隣人愛」「友愛」のことを表します
ストルゲー
こちらも日本ではなじみがありませんが、「家族愛」のことを表します
アガペー
こちらがキリスト教が「もっとも尊い愛の形」と考える、イエス・キリストが、自分を磔にした人を赦(ゆる)したような、「真の愛」「無償の愛」のことを表します
日本では、キリスト教徒以外、こういったことを議論することはほぼありませんので、こういった「愛」=「アガペー」的なもの、というよりかは、色んなことに使われすぎているような気がします。
そもそも日本には「愛」という言葉がなかったことも多分に影響しているでしょう。
本当に愛が一番大切なのか?
とはいえ、日本だけに限定することでもないような気もしますが、たとえば、恋愛感情から来る「ストーカー」なんてのは、本人は「愛の形の表れ」と言いますが、実際は執着心だったということもあります。
それでも、その人にとっては「愛」なのです。
自分のことを一番愛し、他の人のことなんかどうでもいいと考えている人も「自己愛」が強いとされますよね。
そういう意味で、「愛」というものが、良くも悪くも使われてしまう現状があると思うのです。
特に「恋愛」という言葉にも「愛」を使っていますよね。
「I LOVE YOU.」とも言います。
自作の歌をプレゼントするとき(笑)も、「ラブソングを」と言います。
最近はかなり少なくなってきたようですが、バレンタインのチョコにLOVEと書くのもそうでしょう。
だから、極端な話、幼稚園児でも「愛」を語れるワケです。
もちろん、幼稚園児の方が愛をわかっていることもあるかもしれません。
でも、それぞれの人がそれぞれの考え方で語られる「愛」があるのであれば、それは「一番大切な価値観」として広く喧伝するのは難しいのではないかな、というのが私の考えです。
キリスト教徒たちの「アガペー」のように、「愛」というものが共通言語として存在していれば別ですが、少なくともこの日本では「愛」というのが共通言語になり得ないと思うからです。
「愛」がなくても生きていける
また、「愛」がなくても生きていけるのも事実です。
実際、恋人なんかいなくても毎日楽しい、という人もいるでしょう。
まぁ、そういう人は家族が良い人で、ストレスがない、恵まれた人ということも言えるのですが・・・逆に本当に愛情もない家庭で育った人は、愛を求めて、場合によっては共依存関係となったとしても、自分を認めてくれる人、受け入れてくれる人に入れ込んでしまったりしてしまいます。
でも、それも「愛」と言ってしまえてしまうのが、この日本語の「愛」なワケです。虐待ですら「愛」ですからね。
ちょっと話がそれましたが、「愛がなくても大丈夫」と考えがあるのは、たとえば「お金が一番大事」と考える拝金主義的な人にも言えますよね。
だから、「愛がなくても生きていける」、その結果、「愛が一番大切」と考えない人がいても自然です。
ただ、「愛」について面白い表現をしている人がいるので紹介しますが、これは私もなかなか「現代における愛」として的を得ているなと思います。
愛のない人生は、花も実もない木のようなものである(ハリール・ジブラーン)
これは、「20世紀のウィリアム・ブレイク」と呼ばれ、今ゴーンで話題のレバノンで生まれた、日本ではほぼ無名ですが欧米では相当人気のある詩人であり画家の、ハリール・ジブラーン(カリール・ジブラーン)の言葉です。
なお、ジブラーンの『預言書』は、美智子上皇后が、皇太子妃の時に、当時のレバノン大統領に贈呈されて愛読したということで知られています。
この言葉の意味は、まんまですが、簡単に言ってしまうと、愛がなくても生きてはいけるけど、愛がないと、さみしい人生だよ、という考え方です。
別に、花も実もなくたって、緑が生い茂っていればいいじゃん、葉っぱがなくても雪がつもってきれいかもしれないじゃんとか、色々な見方もできますが、花や実のような輝きがないということでしょう。
もっとも、恋人がいなくても、家族がいればそこにも「愛」があるので、本当に「愛」なしの生活している人も少ないとは思うのですが、でも、先ほどと同じように、これだと「愛」ってなんだろう? ということになってしまうので、やはりそれでは、特に子どもに伝えるという点で、「一番大切」とは言いづらいのではないでしょうか?
伝えるべき「一番大切なもの」
そこでようやく結論です。
子どもに「お金が一番大切でしょ?」と聞かれたときの答えですね。
私は、上記のことを踏まえ、こう伝えることにしています。
一番大切なのは「想いやり」です
そもそも、「お金が一番大切か?」なんて聞く子どもは、そもそも精神年齢が低いのです。
だって、考えてもみてください。
お金が一番大切にされる世界のことを・・・
もし本当に「お金が一番大切」な世界があったら…
あ、あいつムカつくな。殺そっと。あ、死んだ。
でも、金持っているからいいでしょ?
賠償金? いくら払えばいいの?
親は大金持ちだから、いくらでも払えるよ?
・・・なんてことがあってもいいわけです。
「そんな極端な!」
と言われるかもしれません。
でも、「一番大切」ということはそういうことです。
どんな価値観よりも優先されるのです。
「ムカついたから、あいつの家に火をつけてやれ」
これもお金を払えば許されます。
「あの女に俺の子どもを産ませたいから、犯してやれ」
これもお金を払えば許されます。
これが、「お金が一番大切」な世界です。
そんな世界が、本当に住みよい世界になるでしょうか?
大切なことを正しく伝える必要がある
実際、世情が安定しない国では、そういったことが往々にして起こってきたのが人間の歴史です。今でもそういった国もあることでしょう。
だから、その時は「お金が一番大切だ」という価値観が蔓延していた、幅をきかせていた時代/国とも言えるでしょう。
でも、それが果たして、文化的な生活なのでしょうか?
好ましい状態なのでしょうか??
子どもは純粋です。
だから、「お金が一番大切なんでしょ?」ということを、純粋に聞いてきます。
悪意はないのです。
純粋に、そう思った。
そういう子がほとんどです。
だって、家賃も払わないといけないし、食費だってかかるし、学校もいかせなきゃいけないし、税金も払わないといけないでしょ?
勉強のできる子なら、そうやって考えることもあります。
たしかに、「お金は必要」ではありますが、なくても生活できるのも事実です。
ちょっと特殊な例ではありますが、キングコングの西野亮廣がよく紹介する、「一日50円で働く」ホームレス芸人という例もあります。
お金という「物」の本質を考えたり、その歴史をひもといてみれば、それが一番じゃないことは明白です。
だから、これが一番大切なんだと伝えましょう
では、その代替は何かとなると、「想いやり」が大事だと伝える方が、子どもには伝わりやすいでしょう。
「想いやり」は、実は取得するのが難しい概念です。
だって、文字通り、相手の心を考えて想いやる必要がありますからね。
でも、だからこそ、ちょうどいいのです。
「愛」は概念が複雑すぎて、子どもには難しすぎる。
かといって「好き」という感情は、誰にでもあるもので単純すぎる。
「想いやり」ぐらいがちょうどいいのです。
努力しないとできないこと。でも、することで多くの実りがあること。
相手が喜ぶこと、相手の気持ちが楽になること、相手の力になってあげること・・・そういったことを「学んでいかせる」ためにも、「想いやりが一番大切だ」と伝える意義は充分あると思います。
「想いやり」が大切であれば、先ほどの「お金が一番大切な世界」のようなことは起こらないでしょう??
なにより、そうやって他人のことを想いやれる人間になれば、敵を作らず、誰からも愛されるのです。困難なときがあっても、助けてもらうこともできるかもしれません。
それは、決してお金では買えない「財産」であり「信用」であり、「宝物」です。
それを、みんながやっていけば・・・
もちろん、そうじゃないからこそ、世界は混沌とするのですが、それでも、少なくとも言葉にしなくても、こういうことを暗に理解している人たちによって、世界の秩序は保たれていると思うのです。
だからあえて、子どもたちを混沌の原因とするのではなく、安寧の起爆剤となれるよう、導く言葉にする必要があるのです。
少なくとも、私はそう思い、「一番大切なのは想いやりだ」と伝えています。
(文中で「思いやり」ではなく「想いやり」で統一したのは、「自分が思う」につながるよりも、「相手の心」ということを意識させたいためです)